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  • 7月17日
  • 読了時間: 14分

7月11日(金)~12日(土) 場所:岩手県(平泉中尊寺他)

参加者(敬称略)計9名:石崎、村瀬、横山、安藤、山崎、佐藤、豊田、倉地、飯田(記)

 

【総括】

石崎さんに企画尽力いただき、世界遺産旅行研修として岩手県平泉の中尊寺などを訪れた。

2日間の行程は世界遺産 平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群の探訪と、明治から大正、昭和初期を生き抜いてきた東北人の記念館視察までも盛り込んだもので、石崎さん渾身一滴の企画。

もともと平泉は遠方すぎて研修地としては無理ではという意見が大半だったが、会として初めて飛行機を利用するなど、石崎さんならでは調査力による計画立案で実現することができた。

 

【詳細】

1日目

A班7名(石崎、村瀬、横山、安藤、佐藤、倉地、飯田)は早朝7時過ぎに名古屋空港に集合。ガイドさん用お土産(生なごやん)を急ぎ購入しFDAに搭乗。花巻空港到着後はレンタカー2台に分乗。ドライバーは石崎さん、横山さん。新花巻駅西口にてB班2名(山崎さん、豊田さん)をピックアップし、最初の目的地へ。(1日目は東北の歴史公園や偉人らの記念館視察)


①江刺藤原の郷

奥州市江刺岩谷堂にある歴史公園。奥州藤原氏の歴史と文化を体験できるテーマパーク。事前予約のガイド「鈴木亜由美さん」と入口で合流し、お急ぎコース「①政庁(北側)→②政庁(南側)→⑦伽藍御所→⑧町並み→⑨ロケ資料館」で案内いただいた。

・もとは32年前のNHK大河ドラマ「炎立つ(ほむらたつ)」の撮影の為に作られた大規模オープンセット。撮影終了後に歴史公園として整備された(市や国の補助も加え36億円)。総面積6万5千坪に大小約120棟の建物が再現。敷地は奥州藤原氏初代清衡が居住した豊田館跡地付近。

・政庁(北側)での弓矢体験や「源頼義の陸奥守着任」シーンを見学した後、昨年の大河ドラマ「光る君」のロケ地となった南側広場を見学(吉高由里子が踊るシーンの撮影場所)。本施設は現在も多くのドラマロケに使用されている。特にレンタル料は不要で、スタッフなどの入場料のみで良い。これは地元の観光PRの位置付けだからとのこと。

・所々にロケスポットの紹介がある(「フジTV逃走中・戦闘中」「麒麟がくる」「刀剣乱舞」など)

・三代秀衡の居館「伽藍御所」では、秀衡が建立した無量光院(平等院鳳凰堂を模した寺院)の再現や「義経の参陣シーン」などを見学。

・行程最後のロケ資料館では膨大な数のドラマ(NHKや民放、映画など)が紹介されていた。「麒麟がくる」のロケ映像も流されていた。

この後、併設の「レストラン清衡」にて昼食。観光地らしからぬ美味しいランチで、皆高評価だった。店の入口で大谷翔平のブロンズ製の手と握手することができた。


②後藤新平記念館

 学芸調査員 「中村淑子さん」が順を追ってその生涯と業績を説明してくれた。後藤新平の業績の多さには驚き。中村さんは地元出身ではなかったが後学ながらよく勉強されていた。

・後藤新平は奥州市水沢生まれ。父は仙台藩家臣だったが戊辰戦争で没落、農民となった。親族に罪人扱いとなり苦労した高野長英のこともあって、子には「政治に関わるな」と教育した。

・本人は腕白なガキ大将だったが、負けず嫌いで勉学に励み、県庁大参事 安場保和の屋敷で下働きをしつつ、安場の部下 阿川光裕の指導を受けて医学校に入学。卒業後は医師として名古屋市の愛知病院(現在の名古屋大学医学部附属病院)に勤務。その才能と努力により24歳で愛知病院長、医学校長となる。外見の若さから軽んじられることもあった。

・病院長時代に、岐阜で板垣退助が暴漢に襲われる事件があり(岐阜事件)、後藤新平が駆けつけて冷静かつ的確な処置を施した。この時に板垣が後藤の政治的才能を見出したと言われている。

・その後、内務省衛生局の仕事でドイツにて衛生制度、社会政策を学び、帰国後は衛生局長に。

・41歳で台湾総督府店局長となり新渡戸稲造とともに製糖業を盛んにした。49歳で南満州鉄道(株)の初代総裁に就き鉄道や港湾、都市などインフラ整備を進めた。2年後には逓信大臣(ポストを赤くして耐火の鉄製にした)、さらに内務外務大臣や鉄道院総裁を3度勤め、鉄道の広軌化や東京駅建設に尽力した。東京市長時代は東京の近代都市化の大事業計画(復旧ではなく復興)を立て「大風呂敷」とも言われた。(なお、岩手県出身の原敬は後藤を非現実的と見て意見が合わず、広軌化や東京駅計画に反対する等、度々衝突したようだ)

・関東大震災が起きた時は、引退した身ながら帝都復興院総裁として世界初の区画整理による都市計画を推し進めた(都市計画の父)。引退後はボーイスカウト活動を理解し、総裁にも任じた。

・71歳で没したが、常に将来を見通す先見の政治家として名を残した。非政治出身ながら数多くの成果を生み、その業績は今にも生きる。ガイドさん曰く「大谷翔平に影響を与えているかも」。

 

③斎藤實(まこと)記念館

ガイドはなく、職員さんが紹介ビデオを上映。記念館は斎藤が建てた旧宅・書庫が基となっている。

・奥州市水沢生まれの明治から昭和初期にかけて活躍した海軍大将、政治家。

・少年時代は後藤新平、山崎爲徳と並んで「水沢の三秀才」と言われた。上京後は働きながら勉学に励み海軍兵学尞に入学。同姓同名の水夫がいたため、幼名 富五郎から實に改名した。

・優秀な成績で卒業した後、アメリカへ4年間留学(西郷従道らと)。帰国後の報告書は高い評価を受けた。子爵令嬢の「仁礼春子」とは帰国後に結婚(35歳と20歳)。海軍次官に抜擢後は軍政家の道を歩み、日露戦争後は海軍大臣。同県出身の原敬内閣の時に朝鮮総督に任命され、現地では武力統治から文治統治へ施策転換し民生安定化に務めた。

・5.15事件以降の難局で内閣総理大臣を拝命、「自力更生」を掲げた。斎藤は大正デモクラシーや国際協調を大事とし、ファシズムや軍国主義への防波堤となっていたが、内大臣を拝命していた2.26事件の時に自宅で襲われ、命を落とした。春子夫人は額を撃たれた斎藤の前に手を広げて立ちはだかり兵士らに「撃つならこの私を撃ってください!」とさけんだらしい(夫人も撃たれ重傷を負った)非常に高貴な方であったようで、記念館でも夫人に関する展示が多く見られた。

・斎藤はあまり知られていない人物だが、時勢に捕らわれない反ファシズム、反軍国主義の姿勢や、年の離れた夫人との仲睦まじさなどがリスペクトされている一因かと思われる。

 

④高野長英記念館

 ガイドの予約はしていなかったが、職員の「及川さん」が臨時で案内してくださった。

・高野長英は奥州市水沢生まれ。江戸時代後期の医者・蘭学者。

・もとは水沢領主の家臣 後藤家の出身だが、9歳の時に実父を亡くし、蘭方医高野玄斎の養子となった。後藤新平とは遠縁にあたり、時代的には後藤新平の祖父の代の人物。(そのため幼少期の後藤は“謀反人の子”といじめられた。長英はそういう存在だった)

・江戸でオランダ医学、長崎でシーボルトから蘭学を学び、江戸にもどった後は塾を開き、医療、翻訳、蘭学を通じた学問に務めた。(その後に起きたシーボルト事件には危うく巻き込まれずに済む)多様な学者とも交流し、日本初の生理学書を著すなど相当な知識人であった。

・幕府がアメリカ商船モリソン号を打ち払うという事件が起き、著作「夢物語」の中でその政策を批判。批判した蘭学者への弾圧「蛮社の獄」により、長英は捕らえられ無期懲役となる。その後、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。各地を支援者に守られながら放浪したが、隠れて医業を営んでいた江戸で捕縛され、非業の死を遂げる。(自害説、殴打による死亡など諸説あり)47歳。

・長らく謀反人扱いだったが、後にその先見性と批判精神を評され、明治31年に坂本龍馬、高杉晋作らとともに、正四位を贈られる。

・ペリー来航はその死の4年後であり、もう少し早ければ長英の人生も変わっていたかもしれない。

 

⑤奥州宇宙遊学館&電波望遠鏡&木村榮記念館

ガイドの予約はしていなかったが、こちらも職員の「及川さん」より簡単な説明をいただいた。

 (奥州市は「及川」姓が多いとのこと。たまに「老川」もいるそうだ)

ここでは運よく、実際に動く電波望遠鏡を見ることができ、一番の思い出となった。

・遊学館は国立天文台水沢VLBI観測所内にある、子どもや高齢者をはじめ一般の方々が遊びながら天文や宇宙について学べる科学館。1階は「月」「大地」、2階は「銀河」「星」「風」などの展示。

・本観測所のもとは1899年に作られた緯度観測所。地球の極位置が14か月ごとに動く「極運動」をくわしく調べるために世界の同緯度で観察することとなり、日本ではこの水沢に設置された。(世界6か所:アメリカ3か所、イタリア、ロシア、日本)観測所初代所長が「木村榮」。

・観測の結果得られたデータは非常に誤差が大きいもので、木村らは批判された。原因追及に苦慮したが、最終的に木村が誤差を修正する「Z項」を発見した。(これで木村は名をなすこととなる)

・なお、「Z項」の理論的な原因は長らく不明だったが、木村の死後30年後に、地球内部が固体ではなく、流体を含むことが原因であることが判明した。

・閉館までにあまり時間なく、石崎さんが是非見たいと言っていた「口径20mの電波望遠鏡」を駆け足で見に行った。たまたま職員さんがおられ、望遠鏡を実際に動かしてくれた。その姿は雄大なもので、間近で見られて非常にラッキーだった。(この望遠鏡は入来、石垣島、小笠原の3望遠鏡と共働し、VLBI(超長基線電波干渉法)という方法で日本列島規模の単一巨大電波望遠鏡として機能することができ、高精度な天体観測を実現している)

・最後に木村榮記念館を見学。氏の功績がわかりやすく紹介されていた

この日は「山王山温泉 瑞泉郷」に宿泊。急ぎ温泉で疲れを癒した後は、「前沢牛と海の幸」の夕食会場へ。乾杯の前、長話になりそうな従業員の方の前口上で暗雲が立ち込めたが、さすが豊田さん、上手に一蹴していただき、皆、料理と酒に辿りつくことができた。

 

2日目

旅館曰く「素材厳選の山の幸&海の幸に、岩手を代表するお米「ひとめぼれ」を頬張れば、今日も一日、元気満点」との朝食で全員エネルギーをチャージ。7時40分に集合し、本研修の目玉である平泉へ出発した。(2日目は世界遺産 平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群の探訪)


⑥世界遺産:毛越寺(もうつうじ)

 古都平泉の訪問地は、まずは世界遺産「毛越寺」。事前予約のガイド「菅原一さん」と合流し、藤原氏二代基衡から三代秀衡が力を注いだ浄土庭園を見学した。

・毛越寺庭園は「特別史跡」「特別名勝」の二重指定を受けている。二重指定は全国9か所のみ(他は後楽園、浜離宮、一乗谷、金閣寺、銀閣寺、醍醐寺三宝院、平城京左京三条二坊宮、厳島神社)

・毛越寺由来は白鹿伝説による。850年、慈覚大師がこの地で霧に覆われて進めなくなった時に、地面に落ちていた白鹿の毛をたどると白鹿がいた。白鹿が消えると白髪の老人が現れ、堂宇を建立せよと告げた。大師は薬師如来の化身と感じ嘉祥寺を建立、後の毛越寺となった。名称は 「毛(もう)+越(おつ)」がなまったもの。「もうおつじ」「もうつじ」「もうつうじ」と変化した。

・1689年芭蕉が当地を訪れ、義経を偲んであの有名な「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠んだ。その句碑が本堂前に設置されている。

・毛越寺の伽藍は消失して見ることはかなわないが、東大名誉教授藤島治郎氏監修の復元図でその姿を偲ぶことができる。本堂でお参りしたあとで案内された南大門跡(礎石12個が完存)からは、大泉が池の中に、かつて渡されていた橋の跡をかすかに見つけることができた。

・ガイドさん案内にて大泉が池を一周。築山(作庭記「枯山水の様」の実例)、アヤメ園(最盛期は6月後半)、開山堂(慈覚大師を祀る。在唐9年間の紀行「入唐求法巡礼行記」はマルコポーロ「東方見聞録」玄奘三蔵「西遊記」とともに三大旅行記と評価)、嘉祥寺跡(二代基衡から三代秀衡にて完成。左右に廊を有す)、講堂跡、緊道円隆寺跡(二代基衡が建立。「吾妻鏡」で「吾朝無双」称せられるほどの万宝を尽くされた。東西に廊を有す)、遣水(ここを舞台に毎年曲水の宴を開催)、常行堂(毎年住職らによる「延年の舞」を奉納。国指定重要無形民俗文化財)、鐘楼堂、常行堂、旧常行堂跡、そして最後に観自在王院跡(二代基衡の妻が建立)を遠目に見つつ見学を完了した。

 

⑦世界遺産:中尊寺&金色堂

 ガイドさんも同乗し「中尊寺」へ車移動。険しい表参道「月見坂」を避けて金色堂近くの駐車場へ。

・駐車場そばに繁っていた「中尊寺ハス」は、金色堂に納められた四代泰衡の首桶から発見されたハスの種子を、大賀博士と門弟長島時子先生が開花させたもの(発見:1950年 開花:1998年)

・さらに大池跡には「大池ハス」。2001年発掘調査で出土した三代秀衡時代のハスの種を長島時子先生が2005年に開花させた。文献によると大池には初代秀衡による毛越寺なみの伽藍があったらしい。

・徒歩で坂を登った先にある「讃衡蔵」にて中尊寺所蔵の国宝、重要文化財を見学。入口の200mを超える三体の仏像「薬師如来坐像2体と阿弥陀如来坐像」、金文字のみで宝塔を描いた「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図」、一手のみ物を掴んでいない「千手観音菩薩立像」、初代清衡による金銀文字で経文を書写した「紺紙金銀字一切経」など。なおこの「一切経」は五千数百経あったが、現在中尊寺には十数巻が残るのみ。ほとんどが秀吉に持ち去られ、今は高野山で見ることができるという。また、千手観音が一手のみ物を掴んでいないのは、病人に手をかざして治癒するため。

・そしていよいよ「金色堂」へ。覆堂のおかげで風雨や何度かの火災から守られた創建遺構。昭和の大修理の時に創建当時の状態に復元され、今の鉄筋コンクリートの覆堂が設置された。国宝第1号。

・入口で外国語解説の終了をじりじりと待ち、ようやく覆堂の中へ入ることができた。その姿は昭和の大修理によってまぶしく輝いていており、感動ものであった。(お堂本体は保護ガラスに守られて通路から離れており、細かい細工を観察するのが難しかったのは残念)

・その後「中尊寺経蔵」「鎌倉幕府による旧覆堂」「大長寿院」「白山神社」「能舞台」「梵鐘」(材質が柔らかく鐘撞禁止だが、震災の大晦日の時に撞かれた)「峯薬師堂」「願成就院宝塔」(塔身部に梵字)などを見学し、最後に「中尊寺」本堂(明治42年に再建。中尊寺山内7ヶ院を包括する中心道場)を参拝した。壇の両脇には比叡山延暦寺より分灯された不滅の法灯が護持されていた。

・平泉は清衡が争いのない国づくりを願った祈りの都市。ガイドさんが最後に語った、「平泉のキーワードは『平和』」という言葉が印象的だった。

 

ガイドさんと別れ、「夢乃風」にて昼食。店員さんが強く進めてきた「夢御膳」「藤原三代お餅善」を食した。(この店とこの料理は、「るるぶ」「マップル」でしっかり紹介されている人気店で人気料理)食後はいよいよ最終日午後の部、まずは予定どおり平泉文化遺産センターへ向かった。

 

⑧平泉文化遺産センター 

 当センターは平泉の文化遺産の魅力をパネルや映像で紹介している施設。 ガイドなしで各自見学。奥州藤原氏を中心にその歴史や中尊寺、毛越寺などが図解や映像で紹介わかりやすくされていた。

 

⑨達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)

中尊寺エリアから西へ10分ほどに位置する国指定史蹟。坂上田村麿が創建。清水寺を模した建築様式や断崖に張り出す舞台造りが特徴的。各自見学。

・世界遺産ではないが、追加登録に向けての取り組みがなされている重要な資産。

・源義家が馬上より弓矢で彫ったという「顔面大仏」がある(見上げる崖の一角にある)

・「金堂」では、旧暦五月廿三日の【大将軍會(だいしょうぐんえ)】による「金堂内特別参拝」が行われており、聖観音様、十一面観音様、根本薬師様、試薬師様を拝むことができた。

 

⑩平泉世界遺産ガイダンスセンター

 予約しておいたガイド「佐藤さん」にて案内いただいた。

・北上川に面する「柳之御所史跡公園」の敷地内に設置された施設(令和3年11月20日築と新しい)。

※柳之御所史跡とは、藤原氏の政庁と居館である「平泉館」の跡地。頼朝に攻められた時に炎上消失している。世界遺産ではないが、拡張登録の取り組みを行っている

・当センターは世界遺産巡りをする前に、ワイドスクリーン映像や展示物で事前学習をし、合わせて柳之御所遺跡の出土物や再現から奥州藤原氏を理解してもらうことを目的としている。

・ワイド映像は平泉の空撮を中心にした迫力あるもの。ガイドの佐藤さんからは世界遺産や史跡の興味深い出土物、当時の生活の再現(食膳など)を説明いただいた。

・出土品「折敷」片には鳥獣人物戯画の類似したカエルが描かれており、早くに都の文化が伝わっていた証明とされている。なお、折敷とは食器や供物を乗せるお盆。その他、猫の足跡の付いた「かわらけ」(飼われていた?)や、紙の代わりにお尻を拭くための籌木(ちゅうぎ)などなど紹介。

・史跡公園には建造物は残っておらず、再現する予算があればと、ガイドの佐藤さんは残念がっていた。

 

⑪正法寺

 最後の研修地。平泉から30分ほど北東の山あいにある、「日本最大級の茅葺の大屋根」を有する法堂で有名な曹洞宗寺院。

・受付後の入り口には無料のドリンクとお菓子で休憩できるカフェスペースがあり、大型ディスプレイで正法寺を勉強できるようになっている。疲れた一行はここでひとしきり休憩し、法堂、開山堂などの見学を行った。

・境内は思いのほか広く、板張りの階段を昇ると、その先の法堂では僧侶らによる祈祷が行われていた。(永平寺の造りに似ているという印象だった)

 

以上で予定された行程は全て終了。JR水沢駅にてB班2名と別れ、残り7名は一般道で花巻空港へ移動、FDAで無事名古屋空港へ帰着することができた。幸いにして、この2日間のみ30℃を切る気温で過ごしやすく快適な旅だった。

最後までハンドルを握りながら我々を案内してくださった石崎さん、ありがとうございました。横山さんも2日間の運転ありがとうございました。所持金の管理と各種支払いに尽力いただいた安藤さん、ありがとうございました。そして全行程を完遂された皆さん、お疲れ様でした。

 

【スケジュール】

・次回 8月9日(土):定例ミーティング 港区生涯学習センターにて

            ※西川さん体験報告、世界遺産研修振返りなど

※今回の研修旅行は、倉地さんがメンバーが撮った写真をDVDとして編集。         以上

  • 6月16日
  • 読了時間: 6分

6月14日(土)13:15~16:30 場所:港区生涯学習センター会議室

参加者(敬称略):村瀬、横山、安藤、石崎、佐藤、豊田、倉地、金森、飯田(記)

リモート参加:西川、山崎 欠席:南保 計11名 リアル・リモートハイブリッド会合


【総括】

・今回の会合のメインは、地元のテレビ局のディレクター兼放送記者 ゾーラさんをお招きしての異文化交流会。モンゴルの紹介と、日本とモンゴルを股にかけたパワフルな活動内容を紹介いただいた。

・その他、来月実施する世界遺産探訪研修計画(みちのくの政治と歴史の旅)の最終確認を行った。


【詳細】

1. モンゴル出身ゾーラさんによるモンゴル國紹介とドキュメンタリー視聴(担当:倉地さん)

(1)「モンゴルについて」

・40代のゾーラさんは、テレビ関連会社の報道記者。また、名大大学院ではジャーナリズムを研究中。

・初来日は2002年。好きな映像作品はアニメ「鬼滅の刃」。善と悪は必ずしも対比できるものではない物語が奥深いとのこと。好きな日本の食べ物は、母国にはなかった味「みたらし団子」。

・広さは日本の4倍だが。人口は330万人と名古屋より少し多い程度。遊牧民は3分の1。残りは街に住む。人口2分の1が首都ウランバートルに住むという片寄った状況で、車の渋滞は日常茶飯事。


・チンギスハーンの孫、フビライハンは元朝の5代皇帝。首都をモンゴルから北京へ移したが、約100年で滅亡した。現在は外モンゴルと中国内の内モンゴル自治区に分かれる。外モンゴルは清の支配下にあったが1921年独立した。

・モンゴルはロシアの影響下で社会主義が70年続いた。良い面としては医療制度や女性の社会進出が進んだ(現在も女性は強く社会で活躍。もともと遊牧民の伝統として男性が戦争に出ていったあとの生活を女性が支えたこともある。悪い面としては「宗教弾圧」。政治家や僧侶を中心に数万人が殺害された。

・1990年モンゴルもペレストロイカ等の影響で民主化し複数政党制と市場経済へ移行した。1992年に新憲法施行と「モンゴル国」へ改称し完全な民主主義国家へ。


・最近、首相が「贅沢」が原因で退陣した。ロシアのX(旧ツイッター)では「モンゴルでさえこれができたのに……」という論調が話題となった。

・モンゴルでは腐敗、格差、不平が社会問題としてある。民主主義移行時の制度変更、設計が不十分で過去からのコネなどで貧富の差が広がった。

・都市と田舎では生活がかなり異なる。ロシアと中国に挟まれているなか、「第3の隣国政策」(アメリカや日本など)を進めいくために都市では英語教育に力を入れている。


・遊牧民の服装はデールという民俗衣装で都市部と異なる。住まいは「ゲル」。組み立て式で3~4人で3時間程度で組む。ストーブは-40℃にもなる冬の暖房用と料理用。そのモンゴル料理はシンプルな塩味


・モンゴルの観光:草原や北部の山岳地帯のトナカイ、カザフト族のイヌワシ、砂漠のラクダなど。また、トランス-モンゴル鉄道は北京-ウランバートル-モスクワをつなぐ寝台列車の鉄道ルートで景色の変化が素晴らしい。子供時代のいい思い出だが、今はモスクワへは行けない。


・モンゴル相撲は生活の一部で学校では教えない。男子は皆子供時代からやっている。

・モンゴル人は助け合いが基本(厳しい自然で生きていくため)。表現はストレート。

・モンゴル人の挨拶「サインヤヴァーライ」は無事な行動を願っての「良い旅を」の意味。

・モンゴル人男性は家事や料理ができる人が多い(女性の社会進出や共働きによるもので、小さい時からやる)


・ゾーラさんは、モンゴル国立大学で日本を専攻。その後東京の女子大へ留学、愛知万博の際にモンゴル館で働くチャンスに恵まれ多くの友達ができた。また、そこで受けたTV取材の報道技術に感銘したという。

・日本愛が再燃したゾーラさんは帰国後再来日し、今のTV局の関連会社に就職し、報道記者の仕事やドキュメンタリー制作に励んでいる。

・2年半前からは名大大学院に入学し、論文「ソーシャルメディア時代のモンゴルの警察とメディアの関係」に取り組み中。


(2)ゾーラさんの制作作品ドキュメンタリー映画       国民と国家〜ある日戦争が始まったら〜」の視聴


・本作は日本テレビNNNの作品募集に応募したもの。2023年4月に放送された。

・ロシアにはスラブ人以外にアジア人、イスラム人、少数民族などが住む。その少数民族「ブリヤート人」の男性がウクライナ戦争への召集を逃れるため、モンゴルへ逃亡する姿を描いた。

 フルの1時間版ではウクライナでの召集問題も扱う予定だったが、放映は30分枠となったためブリヤート人部分が中心となった。


・ゾーラさんとしては、戦争を「国」対「国」ではなく「国」対「国民」の視点で描きたかったという。1時間版ではウクライナの現状も取材している。

・ドキュメンタリーでの取材は相手との信頼関係が重要だ。逃亡してきた人にどう信頼してもらって取材していくかが難しく辛い取材でもあった。

・「国家(のトップ)が国民に対し出兵を要することは間違っている」、「トップを決めるための選挙という仕組み」を無視してはいけないというのが、ゾーラさんの結論だった。


(3)質疑応答意見交換

・ソ連の衛星国はデモで平和裏に民主化が進み、ロシアとの関係を断った。一方でロシアと中国が接近。モンゴルは両国に挟まれており心配。ウクライナとモンゴルは他国とのバッファ国という立場が似ておりいかに立ち回っていくか。

・遊牧民の生活パターンと管理は?→遊牧民同士は互いに干渉しないよう固まらず、春はここ、夏はここというように4か所ぐらいを均等に移動する。単位は家族3人に羊300匹。自治体が住民票管理をしており、集落の学校で子供の教育が行われている。

・日本の給料が低いという件→昔は日本で働きモンゴルへ帰ると家を建てることができたが、今は違う。2000年初め頃、多くのモンゴル人がアメリカ、オーストラリア、韓国、日本に出国したが、日本の給料は上がらず他国との格差は広がった。ただ国は安定しており治安は良い。

・チンギス・ハーンを日本の歴史上人物に例えると?→織田信長かも。恐れられ尊敬されている。なお、「ハーン」は「部族の王」の意。チンギス・ハーンは「偉大な王」を意味する。

※最後にゾーラさんを囲んでの集合写真を撮影。


2. 7月の世界遺産研修「みちのくの政治と歴史の旅」について(石崎さん)

・変更事項はなし。各自搭乗手続きに必要な予約番号を控えるなどの準備のこと。


3. 8月以降の計画について(村瀬さん)

・8月9日:西川さん体験報告:「空調理論と水蒸気」と「会社生活の振返り」を予定。

・9月13日:豊田さんの方で「美濃の自然・アート」を進めていただく。「モネの池」見学も検討中。


4.次回予定

世界遺産研修「みちのくの政治と歴史の旅」実施時期:7月11日(金)~12日(土)

以上

  • 5月12日
  • 読了時間: 6分

5月10日(土)13:20~16:30 場所:港区生涯学習センター会議室

参加者(敬称略):村瀬、横山、安藤、石崎、佐藤、豊田、倉地、金森、南保、飯田(記)

リモート参加:山崎 欠席:西川  計11名 リアル・リモートハイブリッド会合


【総括】

・今回の会合のメインは、今年から参加された「金森さん」と、先月退会後20年ぶりに復会された「南保さん」ご両名からの「体験報告」であり、今までの社会人人生を振り返って報告いただくというもの。

よく「誰でも1冊の本は書ける」と言われるが、両名の経歴は、真に栄光と波乱に満ちた人生劇場である。

・その他、6月に開催する外国人講師とのディスカッションでのビデオの選定、7月に実施する世界遺産探訪研修(世界遺産平泉)の計画の再確認を行った。


【詳細】

1. 体験報告とフリーディスカッション

(1)金森さん テーマ:通運業界の概要や海外生活の話等

・入社時1.5年ほど荷物管理に従事したが、船の仕事はこの時のみで、以後は航空貨物へ移ったため、本社に机を持ったことがなく、10人しかいない役員の一人(そういう意味で妾の子と表現)。以後1988年からカナダトロントに駐在。2004年に名古屋へ帰国したが、2011年からはロスとニューヨークへ。2015年帰国し、数年後定年退職。

・1986年ホンダ技研(マザー工場=埼玉)のカナダ輸出に対応するため急遽トロントに行くことになった。1年英語教室に通い外人の先生に師事したが、英語が出来ない私は「Why You?」と言われた。トロント駐在当初はワンマンオフィスで荷物積み込みなどやってきたが、1年後エルモ駐在員の奥さんを雇うことでこれ以後英語は部下にまかせて苦労はなくなった。仕事は徐々に増えて人員増に。

・トロントの日常生活は、英語がダメでもお金さえあれば困らない。ストリップ劇場の独特な文化等、色々経験した(事務所向かいにランディングストリップがあり、女性陣の夕方出社が日常風景だった)

・ホンダの方針変更により鹿児島へ馬の輸出(馬肉)を始める。ジャンボチャーター機で約100頭を輸送(輸送費は当時2300万円!)。妊娠馬がいないか獣医による証明書が必要で大変な作業だった。

カナダ馬も事態は理解しているらしく、牧場からトレーラーに乗るのを嫌がり、空港でも檻に入る時に暴れるが入ってしまえば大人しくなる。移送中に何頭かは死亡することあり。

「なぜこんな可愛い動物を日本人は食べるのか」等、当時はオランダ従業員に言われたが、今では何10機も飛ばす輸送のプロであり、馬刺しも好物のようだ。

・ルートはアンカレッジ経由。アルコール類の機内サービスはなくてまず寝られない。パン、サラダ、ケーキなどは自前。機内は馬の汗で結露。到着時に天井から結露水が降り注ぐため、降りる際にビニール袋を被った体験もした。

・馬肉は健康食であり、牛よりもミネラル多く、捨てるところも少ないメリットがある。

・馬自体はキロ当たりで売られる。輸出を始めた頃から比べて、馬主努力で体重が500kgから900Kgまで増えた。

 体重増のために蹄を拡張したり、肉のサシを増すためエサを与えたり止める等、様々なノウハウがあるらしい。

・ロスやニューヨークでは駐在員としてゴルフなど快適な生活を送ったが、雨の少ない土地なので大雨で油が浮いた路面では事故が多発したり、山火事が起きて火の粉によって自宅が延焼しそうになったこともある。食料品は新鮮魚が手に入りづらいので、やはり日本の方が良い。

・帰国後体重が20kg減った。向こうは車生活中心のためで、歩く習慣が大切だ。

・国際情勢について。トランプの今の政策は中国つぶしだろう。米国は買うばかりで富が流れ出ている。日本も同様で中国から産業を取り戻すべき。いかに国力をつけるか。ここは政治の問題。

・最近のバンクーバーは中国系も増加し街も変容。ガラス張りビル等、中国人のセンスには疑問あり。


(2)南保さん テーマ:53歳と57 歳に体験にすることになった勤務先の2回のM&A

と、頓挫中の日鉄のUSスチール買収計画について

・詳細は「添付①」を参照。

・今回の振返りは、自分にとっても大変いい機会になったとのこと。

・入社から定年退職までの間で2回の経営統合を経験。なおさん会参加は2002年~2005年なので、経営統合はそれ以後の経験である。

・中国企業の大量生産による供給過剰で、シナジーを最大化すべく日本は業界再編を行ってきたが、決して簡単ではなく、配分バランスが崩れて経営が悪化することも多々あった。

人事面もギクシャクしがちでさらなる環境悪化。最終的には、当時の社長が高炉削減、ライン休止を断行し大幅に経営は改善された。

 とはいえ、結果として自分が関わってきた会社(統合時取締役であった)が閉鎖に至って、自分としては忸怩たる思いだった(製造所廃止時は早期退職ではなく異動で対応)

・過去何度か管理下で休業事故や死亡事故が発生した。「安全はすべてに優先する」ことを今も痛感。

・退職後はFPの資格取得に挑戦、また、セカンドキャリアとして高齢者配食サービスに就職。 弁当配食と共に、家族経営の南店(社長の主人の他、奥さんと子供たちが経営陣。その他延べ約40人のパートさんで運営)の「顧問」にも就任。

現役時代の経験を活かして採算性改善に取り組んでいる。課題は赤字の解消。他社とへの差別化のために厚労省が主導する現在のサービスレベル ステージ③(安否確認+栄養改善)を進化させたステージ④(安否確認型配食サービス+健康支援型配食サービス)への移行に取り組んでいるが、厚労省指針が概念的なもので、現場関係者の認知深耕や施策展開が課題となっている。

・諸経費の高騰の中で、食事の質を落としている他社もあるが、顧客の健康を支援する弁当宅配事業としては本末転倒か。

・弁当は現在1食650円。製造方法は高率化してきた。

※合気道が出来る南保さん、なおさん会参加当時奥様の体調不良を気功で改善させたという逸話あり



2. 6月の外国人講師とのディスカッションや今後の予定について(倉地さん)

・ゾーラさんから提示された4つのビデオについて、会として当日紹介いただきたい作品の選定を行った。

候補 ①モンゴル人記者がみた横綱白鵬(2016年放送)

   ②モンゴル人力士の光と影(2016年放送)

   ③モンゴル抑留の実態(2020年放送)

   ④「国民と国家 ある日戦争が始まったら」(2023年放送)

  最終的に最も興味深いテーマとして ④ に決定   (政治色強いテーマで種々懸念もあったものの決定)

ゾーラさんへの質問は、5/25までに倉地さんまで連絡すること


3. 世界遺産探訪研修について(石崎さん)(添付②(なおさん会後の修正版)参照)

・石崎さんより、なおさん会 世界遺産の旅 東北編『みちのくの「政治と歴史の旅」』の最新案を説明。

実施時期:7月11日(金)~12日(土)

参加予定者:村瀬、横山、安藤、石崎、佐藤、豊田、倉地、山崎、飯田(計9名)

    ※金森さんが諸事情にて不参加となり、10名→9名へ変更

・レンタカー、「江刺藤原」「後藤新平記念館」「平泉」のガイド、昼食、宿泊などの予約は全て完了。

 (宿泊の山王山温泉 瑞泉郷は3部屋 確保済み。一部屋3名の予定)

・新花巻空港のB班ピックアップ場所は西口「ロータリー」(送迎駐車場ではないのでご注意)

・平泉では昼食考慮し、先に毛越寺見学。 車移動にガイドも同乗し、中尊寺でガイド終了予定。


4.次回予定

・6月14日(土) 13:15~16:30 港区学習センター

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